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採訪島田大輔(游泳愛好者)第2部分“東京殘奧會的熱思想”

水泳選手として、アテネ・北京・ロンドンと3大会に渡りパラリンピックに出場している江島大佑選手。ジャカルタで開催されたアジアパラリンピック大会では金メダルを獲得した。このような結果を出すまでにどんな道を歩いてきたのだろうか?その歩みと今後の目標をたっぷり聞かせて頂いた。

圖標16466945 810048175800857 1247399717 n小池菊池 | 2019/02/01
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――リハビリは1日にどのくらいの時間やるものなんですか?   

江島 ほぼ1日中です。まずは朝起きてリハビリをして、昼ごはんを食べて、少し休んで夜までまたリハビリをして寝ての繰り返しです。最初は生活の為にやっていました。   

――もう1回水の中に入った時は何を感じましたか?   

江島 スイミングスクールの支配人に相談したら、二つ返事で明日にでも来いと言って頂き、戻ることになりました。

実際に泳いでみたら、頭の感覚では昔のようにすいすい綺麗に泳いでいるイメージですが、実際は左半身が落ちているので、右ばかりで水をかくしかなく右肩に負担が来るなど、バランスも凄く悪い状態でした。   

今まで染みついていたイメージと、実際のギャップが凄かったんです。  健常者の場合は自由形ならこう泳ぐ、バタフライならこう泳ぐといったある程度の形があります。 

でも僕の障害は僕にしかわからないですし、僕の泳ぎ方に一般的な形は通用しないので、ゼロからオリジナルな江島大佑の泳ぎを作るしかないと思いました。   

ここは多少動くから半分重心を置いて、筋トレでカバーしてバランスをとろうとか、今の体の状態に合わせた泳ぎ方を感覚で作ってきたのです。       

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――復帰した際の怖さや当時をフラッシュバックすることなどはなかったのですか?   


江島 特になかったです。復帰初日は、ウォーキングから始めようと思ったんですが、無意識に泳ぎたいという気持ちになりました。 怖さは無く、ただ純粋に泳ぎたいと思っていました。   

――そこから練習再開となりました。練習は毎日やるものなんですか? 

江島 高校・大学の時はほぼ毎日練習していました。シドニーパラリンピックを見たのは中3の時で、高校受験をどうするかというタイミングでした。8割くらいの生徒が近くの公立高校に進む状況でしたが、その高校に水泳部はなかったんです。   

離れた私立の高校なら水泳部があるということで、受験する前にその水泳部のコーチに会いに行き「障害があるので、端の1コースだけ貸してください。邪魔はしませんので」と言いました。

すると、そのコーチに「ふざけるな。特別扱いはしない。みんなと同じ練習もさせるし、みんなと同じ試合にも出す」と言われました。   

当時は凄く嫌だったんです。そんなこと出来るわけがないと思っていましたので。 障害があるから迷惑をかけてしまうと思っていました。ですが、このコーチの「特別扱いをしない」ということが今に繋がっているんです。   

結果的には、その私立の高校に入学して健常者の大会に出ましたし、普通に健常者の生徒と練習もしていました。     

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――周りは1人の選手として普通に受け入れたんですか?   

江島 スポーツドラマのようないじめもなかったですし「障害があるからどうしたん?」みたいな感じで周りも普通に接してくれました。   

――ギアへのこだわりはありますか?  

江島 基本的には、アリーナさんの製品を気に入って愛用しています。 そこまでこだわりはないのですが、キャップや水着などは、青系の色味のものが多いですね。   

――シドニーパラリンピックを見て、その4年後のアテネパラリンピックに出たんですよね?4年間で頑張ったエピソードや出場できた要因を教えてください。  

江島 2000年でシドニーパラリンピックを見て、2001年に高校で水泳を再開して、2002年(高2)に世界選手権に初めて出ました。正直、楽勝に勝てると思っていたんです。   

自分は健常者と一緒にバリバリ泳いでいるし、同じ障害のクラスでは国内では圧倒的に勝っていて、負けなしで世界選手権へ出ました。ですが、イギリスのアンドリューという選手にボロ負けをしたんです。14秒くらいの差をあけられてしまいました。   

そこで世界のレベルを知りました。シドニーパラリンピックを見て、金メダルを取りたいという想いがあったので、アンドリューを倒すという目標が出来たのです。   

――健常者の時にもオリンピックという夢はあったかと思いますが、障害を負ってから絶対に出場してやるという強い想いになったりしましたか?   

江島 漠然とオリンピックに出たいという想いはありましたが、それがパラリンピックに変わって、より目指したいと思いました。   

――その世界選手権が転機になって練習を積み、アテネパラリンピックでの結果や今に至るまでの結果に繋がったんですね?   

江島 アテネ、北京、ロンドンとパラリンピックへの出場を重ねるにつれてタイムも上がりましたが、世界のレベルも上がっていきました。   

よくイギリスに海外遠征へ行っていたのですが、イギリスはパラリンピック発祥の地であるなど、ヨーロッパの方がパラスポーツは発展しており、優秀な人材がいるんです。   

ヨーロッパでは健常者も障害者も一緒に水泳の大会をやっています。障害があろうがなかろうが予算も一緒ですし、ナショナルトレーニングセンターも支給品もメディアの取り上げ方や国民の目線や期待も同じなんです。       

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――東京パラリンピックへの想いを聞かせてください。  

江島 東京大会は年齢的に最後になると思っています。日本代表では15歳の選手とかいるので、僕はベテランなんです。   

リオへ行けなかった分、今回という気持ちは凄くあります。北京パラリンピックでは両親や祖父が来てくれましたが、東京には会社もありますし、色んな方が見てくれると思うので出場したいです。   

僕がシドニーパラリンピックで成田さんを見て勇気をもらったように、東京で活躍して、障害で悩んでいる当時の自分のような方々に少しでも何かを伝えられるように頑張りたいです。

(了)

照片:Kikuchi Kohei
 
【江島大佑選手のプロフィール】

1986年生まれ、京都府出身。

3歳から水泳を始める。12歳のときにプールサイドで脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残る。その後1年間の闘病とリハビリの中で絶望感にさいなまれるも、シドニーパラリンピックの映像を見て再び水泳を始めることを決意。

立命館大学進学後、2004年アテネパラリンピックに出場し初出場で 銀メダルを獲得する。
 

2006年にはパラリンピックワールドカップ 50m背泳ぎで世界記録を樹立。 2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピックと計3度のパラリンピックに出場。 

現在は株式会社シグマクシス所属のプロフェッショナルスイマーとして競技に取り組んでいる。