曾在南美,J聯賽和歐洲第5冊中戰鬥的松原良香的當前位置
松原佳香(Yoshika Matsubara)從岩田朱比洛(Jubilo Iwata)開始活躍於J聯賽的多個團隊中,還曾在烏拉圭,克羅地亞和瑞士效力。 “您在日本和國外從事什麼樣的職業?您現在正在從事什麼樣的活動?”
小池菊池
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2020/04/22
Vol.4はこちらから
――当時のクロアチアは凄くレベルが高いですよね。98年のワールドカップも3位でしたもんね。
松原 僕はクロアチアでは主にウイングやサイドMFでのプレーで得点に絡むことを要求されていました。
一点もとれなかったのですが、僕の可能性を感じてくれていたクラブからは、来シーズンも残って欲しいと言われていました。そんな状況の中、エージェントが話を持ってきたのです。
オーストリアの、今、北川航也選手が所属するチームです(※オーストリア・ブンデスリーガ一部のSKラピード・ウィーン)。
そこに、ACミランからサビチェビッチ(デヤン・サビチェヴィッチ)が入るかもしれない、と。
「良いチームだから、あそこに行ったら、お前が日本でもらっていたような給料がもらえる。環境がいいんだよ」と。そう言われると、「そっちに行きたい」って思うに決まっていますよね。
――サビチェビッチ来ますし。
松原 はい。だから僕はクロアチアのリエカからの継続オファーを断るのは残念で心残りでしたが、オーストリアへ移籍することにしました。その後7月くらいに日本に帰り、一か月程日本にいました。
なかなか移籍交渉が進まないので、「まだか」とエージェントに問い合わせたら「良香、ヨーロッパに戻って来い」と言われ、ミラノへ行きました。当時はイタリア人のエージェントでした。
ミラノへ行き、「現在交渉が長引いているから、しばらくここのホテルにいろ。動きがあればすぐに呼ぶ」と言われました。そうしていたら、「オーストリアのチームが結局ダメになった」と連絡が入りました。
「今ドイツのチームと、良香はスペイン語も話せるからスペインのチームも探している」と。
そのままミラノのホテルに一週間強くらいいました。すると「スイスのチューリッヒでテストを受けるから来い」と言われ、テストを受けました。
しかし、その頃のコンディションは良くありませんでした。多少は体を動かしていましたが、オフシーズンだったこともありサッカーをずっとやってなかったんです。
日本ではオフを満喫して遊んでいましたから。なんせオーストリアに行くものだと思っていたので。
――決まっていたと思っていたんですものね。
松原 そうなんです。待っている間は、ミラノの公園で朝走るくらいだったので、不安でした。
チューリッヒに移動した当日、いきなりテストとなる試合に出ました。その試合は何とか良くできたので、「お前また明日も来い」と言ってもらいました。
翌日、試合会場へ向かうバスに乗っているときに、エージェントが「おい良香、今日の相手はバイエルン・ミュンヘンだから」と。
「えー、本当?!」って言って。
それでピッチに立ったら、当時のエウベル、ヤンカー、リザラスなどスター選手がいっぱいいました。バイエルンがスイスでシーズン前のキャンプを行っていたのです。
――方や松原さんは公園で走っているくらいしかしていない。
松原 方や公園で走って、その前の一か月間は何にもやっていない人が。当時のバイエルンは相当強かった。あまりにもショックが大きく、身が入りませんでした。オーストリアのチームに入るものだと思っていたので。
――気持ち的にも下がっていたんですね。結果は大敗だったのですか?
松原 もちろん、5点くらい取られたと思います。キャンプといえども、相手はバイエルンなので、お客さんもけっこう見に来ていました。
僕もバカだなと思ったのが、バイエルンに攻め込まれていたとき僕のところにボールが来たんです。位置はハーフウェーラインくらい。
ターンして、フリーだったから、キーパーが前に出ていたのがわかったんです。そのままシュートを狙ったら、緊張のあまりか、もしくはトレーニングをしていなかったからか、ボールがチョロチョロしか飛びませんでした。
ゴールまで50メーターくらいの距離を、見えていたことは良かったんですが、キックしたら全然飛ばなかった。恥ずかしいですよね。
たしか近くにイェレミースがいたと思います。足に力が入らなかった。あれが決まっていたら、合格していたかもしれないと。
――決めていたら会場がかなり沸いたんでしょうね。練習に参加していたチームはFCチューリッヒですよね?
松原 FCチューリッヒです。昔カズさんが入るかもと言われていたチームです。結局契約はできませんでした。要は練習不足ということがよくわかったわけです。
それから、チューリッヒでずっと練習をさせてもらったのですが、ちょうどその時、スペインかポルトガルにいたゾノ(前園真聖)も困っていて、僕のところに駆けつけてきました。ゾノも一か月くらい一緒にいたと思います。
――前園さんとFCチューリッヒの練習へ一緒に参加されてたんですね。
松原 その後、僕はドイツに渡ることになり、ゾノは結局ヴェルディに行きました。
ドイツのハノーファーから入って、アルミーニア ビーレフェルト、ダルムシュタットなどいろいろなクラブを一人で渡り歩きました けれどもなかなかチームが決まりませんでした。
ヨーロッパへ渡った時から、エージェントからは「二部や三部はダメだ。一部に絞っていこう」と言われていました。
最後に三部リーグのチームからオファーをもらって、監督室に呼ばれて「是非うちでやってほしい」と直接言われました。三部で迷いましたが「もうここでプレーしたい、ここに決めたい」という気持ちでした。
――トレーニングをしたり、試合勘を取り戻さないといけませんよね。
松原 だからエージェントって大事なんです。「一部じゃないと意味がない」って、でも僕はプレーがしたい、サッカーがしたいんです。当時のブンデス一部なんてとてつもなく難しいんです。
このクラブの練習に参加したら、ドイツだからサッカー環境も良く、お客さんもいっぱい入っていてとても盛り上がっていました。
「やってみたい。こんな人がいっぱいの中でやれる。凄く充実するのでは」と思って、ここでやりたいと言ったんです。
監督もすぐに使いたい、契約したいと言ってくれました。でもエージェント同士の話で、残念ながら無くなりました。
――エージェントもお金になる一部リーグに松原さんを入れたいわけですね。
松原 そうなんです。すごくショックでした。そこからまた一からやり直しです。
たどり着いたのは、スイス一部リーグのデレモンというクラブで、当時は最下位で弱かったのですが、試合に出たいしサッカーがしたかったので給料なしでやりました。家や、食べるところはチームが面倒をみてくれました。
Vol.6へつづく
我採訪過的松原佳香(Yoshika Matsubara)的書正在出售。
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https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b473160.html
――当時のクロアチアは凄くレベルが高いですよね。98年のワールドカップも3位でしたもんね。
松原 僕はクロアチアでは主にウイングやサイドMFでのプレーで得点に絡むことを要求されていました。
一点もとれなかったのですが、僕の可能性を感じてくれていたクラブからは、来シーズンも残って欲しいと言われていました。そんな状況の中、エージェントが話を持ってきたのです。
オーストリアの、今、北川航也選手が所属するチームです(※オーストリア・ブンデスリーガ一部のSKラピード・ウィーン)。
そこに、ACミランからサビチェビッチ(デヤン・サビチェヴィッチ)が入るかもしれない、と。
「良いチームだから、あそこに行ったら、お前が日本でもらっていたような給料がもらえる。環境がいいんだよ」と。そう言われると、「そっちに行きたい」って思うに決まっていますよね。
――サビチェビッチ来ますし。
松原 はい。だから僕はクロアチアのリエカからの継続オファーを断るのは残念で心残りでしたが、オーストリアへ移籍することにしました。その後7月くらいに日本に帰り、一か月程日本にいました。
なかなか移籍交渉が進まないので、「まだか」とエージェントに問い合わせたら「良香、ヨーロッパに戻って来い」と言われ、ミラノへ行きました。当時はイタリア人のエージェントでした。
ミラノへ行き、「現在交渉が長引いているから、しばらくここのホテルにいろ。動きがあればすぐに呼ぶ」と言われました。そうしていたら、「オーストリアのチームが結局ダメになった」と連絡が入りました。
「今ドイツのチームと、良香はスペイン語も話せるからスペインのチームも探している」と。
そのままミラノのホテルに一週間強くらいいました。すると「スイスのチューリッヒでテストを受けるから来い」と言われ、テストを受けました。
しかし、その頃のコンディションは良くありませんでした。多少は体を動かしていましたが、オフシーズンだったこともありサッカーをずっとやってなかったんです。
日本ではオフを満喫して遊んでいましたから。なんせオーストリアに行くものだと思っていたので。
――決まっていたと思っていたんですものね。
松原 そうなんです。待っている間は、ミラノの公園で朝走るくらいだったので、不安でした。
チューリッヒに移動した当日、いきなりテストとなる試合に出ました。その試合は何とか良くできたので、「お前また明日も来い」と言ってもらいました。
翌日、試合会場へ向かうバスに乗っているときに、エージェントが「おい良香、今日の相手はバイエルン・ミュンヘンだから」と。
「えー、本当?!」って言って。
それでピッチに立ったら、当時のエウベル、ヤンカー、リザラスなどスター選手がいっぱいいました。バイエルンがスイスでシーズン前のキャンプを行っていたのです。
――方や松原さんは公園で走っているくらいしかしていない。
松原 方や公園で走って、その前の一か月間は何にもやっていない人が。当時のバイエルンは相当強かった。あまりにもショックが大きく、身が入りませんでした。オーストリアのチームに入るものだと思っていたので。
――気持ち的にも下がっていたんですね。結果は大敗だったのですか?
松原 もちろん、5点くらい取られたと思います。キャンプといえども、相手はバイエルンなので、お客さんもけっこう見に来ていました。
僕もバカだなと思ったのが、バイエルンに攻め込まれていたとき僕のところにボールが来たんです。位置はハーフウェーラインくらい。
ターンして、フリーだったから、キーパーが前に出ていたのがわかったんです。そのままシュートを狙ったら、緊張のあまりか、もしくはトレーニングをしていなかったからか、ボールがチョロチョロしか飛びませんでした。
ゴールまで50メーターくらいの距離を、見えていたことは良かったんですが、キックしたら全然飛ばなかった。恥ずかしいですよね。
たしか近くにイェレミースがいたと思います。足に力が入らなかった。あれが決まっていたら、合格していたかもしれないと。
――決めていたら会場がかなり沸いたんでしょうね。練習に参加していたチームはFCチューリッヒですよね?
松原 FCチューリッヒです。昔カズさんが入るかもと言われていたチームです。結局契約はできませんでした。要は練習不足ということがよくわかったわけです。
それから、チューリッヒでずっと練習をさせてもらったのですが、ちょうどその時、スペインかポルトガルにいたゾノ(前園真聖)も困っていて、僕のところに駆けつけてきました。ゾノも一か月くらい一緒にいたと思います。
――前園さんとFCチューリッヒの練習へ一緒に参加されてたんですね。
松原 その後、僕はドイツに渡ることになり、ゾノは結局ヴェルディに行きました。
ドイツのハノーファーから入って、アルミーニア ビーレフェルト、ダルムシュタットなどいろいろなクラブを一人で渡り歩きました けれどもなかなかチームが決まりませんでした。
ヨーロッパへ渡った時から、エージェントからは「二部や三部はダメだ。一部に絞っていこう」と言われていました。
最後に三部リーグのチームからオファーをもらって、監督室に呼ばれて「是非うちでやってほしい」と直接言われました。三部で迷いましたが「もうここでプレーしたい、ここに決めたい」という気持ちでした。
――トレーニングをしたり、試合勘を取り戻さないといけませんよね。
松原 だからエージェントって大事なんです。「一部じゃないと意味がない」って、でも僕はプレーがしたい、サッカーがしたいんです。当時のブンデス一部なんてとてつもなく難しいんです。
このクラブの練習に参加したら、ドイツだからサッカー環境も良く、お客さんもいっぱい入っていてとても盛り上がっていました。
「やってみたい。こんな人がいっぱいの中でやれる。凄く充実するのでは」と思って、ここでやりたいと言ったんです。
監督もすぐに使いたい、契約したいと言ってくれました。でもエージェント同士の話で、残念ながら無くなりました。
――エージェントもお金になる一部リーグに松原さんを入れたいわけですね。
松原 そうなんです。すごくショックでした。そこからまた一からやり直しです。
たどり着いたのは、スイス一部リーグのデレモンというクラブで、当時は最下位で弱かったのですが、試合に出たいしサッカーがしたかったので給料なしでやりました。家や、食べるところはチームが面倒をみてくれました。
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