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「ペレは完璧なFW 世界一上手かった」 金田喜稔がレジェンド選手との対戦を振り返る

日本のサッカー界において輝かしい功績を残したプレーヤーが中心となり、2010年に結成された一般社団法人日本サッカー名蹴会(以下名蹴会)では、サッカーの普及やスポーツに取り組む青少年少女をサポートする活動を全国各地で開催している。その会長を務められているのは、サッカー日本代表(19歳119日・日本代表最年少ゴール記録)や日産自動車サッカー部を経て、現在は解説者などで活躍されている金田喜稔さんだ。今回は、ペレやベッケンバウアー、マラドーナといったトップ選手と対戦した現役時代の想い出を交えながら、金田さんのサッカー感に迫った。

圖標kinggear圖標KING GEAR編集部 | 2021/10/29
©︎日本サッカー名蹴会


 ――金田さんは、学生時代はどのように情報を集めていらっしゃいましたか?サッカー雑誌などでしょうか? 

金田:そうだね。「サッカーマガジン」や「イレブン」を見ていたね。当時は、まだ「サッカーダイジェスト」は無かった。懐かしいな。  

わしは広島駅の近くに住んでいたので、近所には色々な店があったんだけど、サッカーシューズを多く置いてくれているスポーツ用品店があって、広島工業高校で過ごした3年間は、トレーニングを終えた後に毎日のように立ち寄っていましたね。 

 1年生の時には、「アディダス」とかは、なかなか着られないんですよ。そもそも値段が高いし、「生意気」だとか言われるし。だから、高校2〜3年生くらいの時に、初めてアディダスのジャージを買った記憶がありますね。ずっと「生意気」でいられたのは、木村和司くらいですね。中学3年ぐらいで、もう着ていたような印象がある。 アディダスを纏った和司が高校1年で入ってきたときに、グランドの脇で見ていて「こいつは何者や!」と。


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当時から、木村和司さんのテクニックは健在でしたか?
 

金田:いや、抜群にうまかったね。リフティングしながら普通に寝転がってヘディングしつつも、ボール落とさずに起き上がったりとか。「何やコイツ!」みたいな。俺らはリフティングが出来なかったので、「凄げえなぁ…」と思って見ていました。

 これは技術的なことだけど、クロスを曲げて中にあげたのは、木村和司が日本で最初だと思う。回転させながらで中の方に入れるクロスとかね。

あと、「すごいな」と思ったのはリトバルスキーとかかな。 「え、こんなクロスをあげるんか」とか。そんな感じでした。やっぱりシューズによって自分のキックを磨いたり、昔はそれぞれの選手が自分で考えてやってたんやろうね(注1)。


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(注1)言わずと知れた金田・木村コンビは80年代の日産黄金期をけん引しました。左は82年JSL開幕前のお二人(サッカーマガジンの特集)。
一方、日本代表でお二人が一番輝いたのは82年のアジア大会でベスト4になった時だと思います(右)。その後、満を持して臨んだ84年のロス五輪予選で惨敗し、
金田さんはそれ以降、日本代表入りを固辞されました(当時まだ26歳)。あと一歩で初出場の夢がかなわなかった85年のメキシコW杯予選に金田さんがいたらと、当時のサッカーファンの誰しもが思ったものでした。



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-金田さんは、サッカーを始めた時から「ドリブラーだったんですか? 

金田:どちらかといえば元々「ドリブルは好き」だったかな。中学生1年生からサッカーを始めたんですけど、小学校からやっている子達のなかでプレーしているので、自分が一番下手なわけです。

中学生の頃は、1
対1のドリブル練習や、壁に向けてボールを蹴るような個人練習をよくやっていました。
 高校に入学してからは、「3人のDFを1人で抜き去って帰ってくるトレーニング」とかをよくやっていましたね。

  ――当時の広島工業は、すごくスペクタルなサッカーをやっていたと評価されていることが多いですが、テクニシャンが多かったのですか?

金田:そうですね。「蹴れる」、「運べる」、「抜ける」という選手は多かったかもしれないね。とにかく監督をされていた松田輝幸さんが本当に凄い方でした。 「日本サッカー界の父」と言われるデットマル•クラマーが、コーチングをしていたトップでしたし、その一番弟子でしたね。

そんな松田監督が、30代前半の頃に高校に戻ってきて、俺らの指導をするんですけど、とにかく上手くて…。
監督が練習の合間にやるフェイントやシザースを盗み見ながら、自分のものにしていきました。広島県工の場合は、僕が監督から吸収したことを後輩に教えることが多かったと思うんですけど、その流れで多くのチームメートがドリブルをする流れになったのかなとは思いますね(注2)。

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(注2)80年代の高校サッカーで「県工」と言えば県立広島工業のことを意味するほど、全国に名が知れた名門高でした。金田さんが卒業されて数年後のアシックスの広告は、アシックスのジャージとスパイク(当時珍しい青色)で練習する県工サッカー部の写真が長きにわたって使われていました。

 ――金田さんが参考にされた海外の選手とか日本の選手っていますか?

金田:ジョージ・ベストは、なんとなく意識したかな…。小学校から中学校一年生ぐらいの時、プレミアダイアモンドサッカーの放送を見た時のジョージベストが、頭の中にあるんですよ。

 ジョージ・ベストを特に意識していたわけじゃないけど、自分の若い時のドリブルやフェイントを改めて見ると、「あれ、ジョージ・ベストの影響受けていたんだな…」と、大人になって気付くような場面はあって。 「意識して真似したこと」はないけど、やっぱり見ていた影響はあるのかなって思ったね。(テレビ番組の)「ダイアモンドサッカー」でレッスン受けたりしましたし(注3)。

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(注3)ジョージ・ベスト選手(富越正秀さんが撮られた写真です)。北アイルランド出身でW杯の出場経験がないのにもかかわらず、
「Maradona good, Pele better, George BEST」という言葉があるほど世界的に有名なFW。ベスト選手が一番活躍されたマンチェスター・ユナイテッド在籍時に主に使用していたスパイクは「スタイロ」でした。

金田: それ以外に影響を受けたのは、ブラジル代表で、左利きのトスタンっていう選手ですね。最初に「シャペウ」をやったと言われている人。その後は、セルジオ越後さんとかもやっていたけど、参考にしたのはフェイントやドリブルの上手い人。 でも、もっと細かくいうと、「ドリブル」じゃなくて、フェイントを含めた相手を抜き去るための技術。 「ボールタッチ」で影響を受けたのは、マラドーナやペレとかかな。ペレだけは「どうやっても無理やな」と思ったけど…。

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――まずはマラドーナと対戦した話を聞かせください。 

金田:ペレ、マラドーナの2人とプレーしているという日本人選手は、なかなかいないんですよ。彼らの年齢はある程度離れているし、長い期間日本代表でプレーし続けていないと、それは実現できない。 わしは、たまたま若い時に日本代表に入れてもらったので、晩年のペレ、クライフ、ベッケンバウアー、全盛期のディエゴ・マラドーナ(注4、5)と対戦した経験があります。

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(注4)82年のゼロックス杯、ボカ・ジュニアーズ対日本代表戦でマラドーナ選手と対戦した金田さん。この時の日本代表のユニフォーム、スパイクはアシックス。
マラドーナ選手といえども、このころの知名度はまだ低く、スタンド(国立競技場)は閑散としています。注6のペレ選手来日時とは比較になりませんでした。マラドーナ選手のスパイクについては
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英雄所愛的歷史尖峰 VOL.51“再見迭戈(決賽)在日本的成功”

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をご覧ください。(画像:フォトキシモト)

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(注5)世界のスーパースターたちと対戦された金田さん。左は84年ゼロックス杯、コリンチャンス対日本代表戦でソクラテス選手と対戦。ソクラテス選手のスパイク(ユニフォームも)はトッパーです。日本代表のユニフォーム、スパイクはプーマで、金田さんのスパイクは今では幻の西ドイツ製「
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キングギア発起人金子達仁氏×ビンテージスパイクコレクター小西博昭氏が「西ドイツ製PUMAスパイク」を語るvol.3

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」。右は80年ゼロックス杯、ワシントン・ディプロマッツ対日本代表戦でクライフ選手(スパイクは黒塗りのプーマか?)と対戦。日本代表のユニフォーム、スパイクはアディダスで、金田さんのスパイクは「
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英雄所愛的歷史釘鞋 VOL.58“1979 W 青年日本國家隊 W 杯優勝者版”

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」。


金田:当時の日本サッカー協会は、ワールドカップで優勝したチームのスーパースターを呼んでくれていたので、僕たちはたまたまそういった名選手たちとゲームができました。 勿論、彼らは公式試合ではないから“遊びに来ている”のかもしれないけれど、ワールドカップで優勝するような強豪チームのスーパースターから、ピッチに立った時の威圧感、手を抜かない姿勢などを感じ取りました。 

僕が学生の時に対戦したクライフとかは、「格の違い」はもちろんですが、真摯にサッカーに取り組んでいる様子を目の当たりにして…。えらく感動したのを覚えていますよ。
でも、そんな名選手の中でも、ペレはちょっと別次元だったね。 

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――1977年に全日本の一員として実際に対戦されていますね? 

金田:ペレの引退試合で(ペレが所属していた)ニューヨーク•コスモスが来日した時、満員の国立競技場でプレーしました。(1977年9月) あの時、初めて同じピッチに立った時には、「うわぁ、ペレや…」「本物や…」みたいな感じで…。わしらは、W杯に出ているわけじゃないし、「ペレと一緒のピッチ上にいる状況」を理解できないじゃないですか(注6)

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(注6)77年ペレ選手(NY・コスモス在籍)と対戦する日本代表にデビューしたころの金田さん。(画像:アフロ)

金田:カルロス•アルベルト、フランツ・ベッケンバウアーなど、あの頃は、世界のスーパースターが集まっていたからなぁ…。W杯優勝したメンバーばかりなわけですよ(注7)。

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(注7)金田さんはNY・コスモスのベッケンバウアー選手と2回対戦しています。77年(上、金田さんは前列右端)と83年(下、金田さんは前列左から二人目)の集合写真。どちらも後列中央がベッケンバウアー選手。上の後列25番がカルロス・アルベルト選手で、息子のトーレス選手はグランパスで活躍されました。

 ――当時のペレ選手の印象を教えてください。 

金田: ペレは、身長170㎝くらいなんだけど、10秒台で走れるし、右足でのキック、左足でのドリブルもある。加えて空中にあるボールコントロールは、今でも世界一上手いと思っている。FWとしての要素を全て兼ね備えた選手でした。 

でも、日本サッカー協会は、「全てできる選手」を、“サッカー選手のモデル”にしたんだよね。ペレがいた頃のブラジル代表で、W杯決勝(イタリア戦)の出場メンバーを見ても、ペレ以外は、みんな利き足しか使ってない。両足を使える選手なんていなかった。
 

右ウイングのジャイルジーニョは右足しか使えないし、リベリーノやトスタンも左足だけ。「なんで、ペレだけを見るんや…」と思うんですけど、ペレを“モデル”にしたわけですよ。絶対になれるわけわけないじゃん

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確かに一個孩子の頃には「両足使えないとĴリーガーになれない」と言われたことがありました。
  

金田:
こは大きな間違いですよ。今でも、片足が70%ぐらい蹴れるようになったら、「逆の足でも蹴るべき」という人は多いと思う。もちろん両方扱えたらこの上なく素晴らしいですし、言っていることは正しいですよ…。

でも俺は、「両足指導」ってのは、もともと無理があって、利き足をパーフェクトになるまで磨き上げた方がいいと思っているんです。 

 なので、名蹴会のクリニックでも、「利き足を中心にボールを蹴る、止める、運ぶが上達するような指導をしています。参加されたみなさんも利き足でボールを操れるようになると、なんとなく自信持つようになってきて、サッカーの楽しさを感じてもらえるんですよ。

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釜本さんの引退試合(84年)でペレ選手と肩を組む金田さん  

【採訪合作】
橫濱足球電影節
一般社団法人 日本サッカー名蹴会
【写真提供】Hiroaki Konishi