Catering's“My First Spike”3rd Dragan Muruja&Nates Pettnik(Omiya)vol.1 Beauard從尖峰知道的困惑。
2016年、J1でのクラブ史上最多の勝ち点を獲得した大宮アルディージャ。 J2 で戦うことになった2015年からトップチームスローガンにも明らかな変化がありました。 加藤理恵 『挑む 頂点へ、未来へ』 そして今年のスローガンは『挑む より高みへ、未来へ』 その通り。受け身ではなく自分たちで切り拓いていく強さが今の大宮には見えます。実りの時。 今回は、その躍進を支えたバルカン半島出身の二人。ドラガン・ムルジャ選手と、ネイツ・ペチュニク選手にお話を伺いました。 生まれた時は同じ国だった二人。旧ユーゴスラビア崩壊後、ムルジャ選手はセルビア、ペチュニク選手はスロベニア国籍となります。 日本で知られているようで知らないバルカン半島。 スパイクを合言葉に、二人の人生、二人が生きた国を見ていきましょう!!
KING GEAR編集部
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2016/11/16
加藤 お二人はセルビア1部リーグのレッドスター・ベオグラードでもチームメイトだったんですよね?
Muruja はい、そうです。レッドスターにいた時は、ペチュニクと他5、6人の選手とグループで仲良くしていました。
加藤 テニスを一緒にした事もあるそうですね。
Pechuniku はい。でも僕はテニスをプレーするけど、ムルジャは“しようとしていた”っていうレベルですよ(笑)
加藤 (笑)!! 先ほど、加藤順大選手(大宮)が、「二人はいつも一緒にいるけど本当に仲いいのかな?」って言ってましたよ(笑) 顔を見合わせ、笑い出す二人。
Pechuniku 二人ともバルカン出身なのですが、向こうの人は冗談が大好きなんです。 いつもくだらないバカ話ばかりしているので、そういうのが日本人には不思議に映るのかもしれないですね。
Muruja はい、そうです。レッドスターにいた時は、ペチュニクと他5、6人の選手とグループで仲良くしていました。
加藤 テニスを一緒にした事もあるそうですね。
Pechuniku はい。でも僕はテニスをプレーするけど、ムルジャは“しようとしていた”っていうレベルですよ(笑)
加藤 (笑)!! 先ほど、加藤順大選手(大宮)が、「二人はいつも一緒にいるけど本当に仲いいのかな?」って言ってましたよ(笑) 顔を見合わせ、笑い出す二人。
Pechuniku 二人ともバルカン出身なのですが、向こうの人は冗談が大好きなんです。 いつもくだらないバカ話ばかりしているので、そういうのが日本人には不思議に映るのかもしれないですね。
加藤 今ぱっと見た感じでは、とても真面目そうに見えます。
Muruja インタビューですからね、ここは。
Pechuniku 僕はもっと冗談を言いたいんですけど、ムルジャが真面目な顔してるから…
一同、大爆笑。
加藤 さて。まず、お二人の生まれた国についてお聞きしたいのですが・・・お互いの生まれた国に行った事はありますか? ペチュニク選手はセルビアでもプレーされていますもんね。ムルジャ選手はスロベニアに行った事はあるんですか?
Muruja はい、キャンプで何度も行っています。スロベニアにはキャンプの受け入れができる施設があるんです。
加藤 へぇ、スロベニアってそういう所なんですね。ペチュニク選手はそのスロベニアのどこで育ったんですか?
クスクス笑い出すムルジャ。
Pechuniku 誰も知らないと思います、その町を…。
加藤 それはなおさら聞きたいです。
Pechuniku ドゥラヴォグラードという市があるのですが、その隣にある人口4000人程度の町です。 スロベニアの北の方の、オーストリアまで2Kmの場所です。
加藤 何がある町ですが?
Pechuniku ・・・信号が1基あります。
加藤 え???車は走ってないんですか?
Pechuniku いえ走ってるんですけど、町自体がとても小さいんです。綺麗な自然があるのんびりした町で。
加藤 ムルジャ選手が育った場所は?
Muruja セルビアの首都ベオグラードから70Kmくらい離れたヴライコヴァツという人口3000人くらいの小さな町です。 静かで落ち着いていてストレスのない、子供にとってはすごくいい場所だと思います。
Pechuniku 二人とも田舎者なんですよ(笑)
加藤 その町でサッカーをはじめたんですか?
Muruja はい。よく覚えていないのですが、7、8歳頃にはクラブチームでもうやっていました。
Pechuniku 僕は5歳頃。田舎ではあるけど、地域に施設の整った有名なサッカースクールがあったので、運がよかったですね。
加藤 ではその頃に、初めてのスパイクを買ったんですね。ズバリ!“あなたがはじめて履いたスパイクは何ですか”??
Pechuniku ・・・実は25年前の事なので全く覚えてないんです。 そもそも小さい頃はメーカーの事は全く考えていなくて、父が買い与えてくれた物を履いていました。
Muruja 僕も似たようなものですが、一応覚えてはいます。プーマのキングというスパイクでした。
Pechuniku あ!子供の頃の話をしていて思い出したんですが、赤いパトリックを履いていた事がありますね!
加藤 パトリック?何ですかそれ?
Pechuniku 靴のメーカーです。たぶんオーストリアあたりの。あの頃はまだ黒のスパイクばかりだったので、 赤いスパイクを履いたという事で記憶に残っているんです。7、8歳頃かな。 (注・後で調べてみたら、なんと!プラティニも愛用していたというフランスの靴メーカーでした)
加藤 では。欲しくてたまらなくて手に入れた、はじめてのスパイクは?
Muruja アディダスのスパイクです。名前は忘れました、見た目は覚えてるんですけど。 14、15歳の頃で、当時すごく人気があったスパイクでした。
加藤 フランスW杯の少し後ですかね?
Muruja あっ!97年にレッドスターのユースに移った時だ!おばさんが買ってくれたんです。 田舎からレッドスターに入るためベオグラードに出てきた時に、6カ月くらいおばさんの所に住んでいたんです。 おばさんは僕が気に入ってるスパイクを知っていてくれて、サプライズでプレゼントしてくれました。
加藤 めっちゃいいおばさんじゃないですか・・・
Muruja そうですね(笑)
加藤 ところで。少し込み入ったことを聞きますが、ベオグラードというと大変だった時期がありますよね? (注・コソボ紛争で1999年ベオグラードはNATOの空爆により大規模な被害を受ける)
Muruja 14歳の子供の時に暮らすにしては苦労がありました。 田舎から都会に出た、という意味ではもちろん大変なこともありましたが、おばさんの所にいたのでうまく適応できたし、 その後はレッドスターの宿舎で暮らしていたので苦労はありませんでした。
加藤 ムルジャ選手がベオグラードに移った時期は特に、一番混乱していたんじゃないですか? スパイクなどを手に入れるのは大変ではなかったですか?
Muruja あの頃はそう簡単には手に入らなかったですね。ある用品店の店長がいて、みんなその人経由で手に入れていました。
加藤 普通に買い物はできなかったという事ですか?
Muruja そうですね、もちろん完全にできないわけではないんですが、入手するという意味では難しかったかもしれません。
加藤 スパイクに限らず他の物も手に入れるのは難しかったんですか?
Muruja ちょうど僕がベオグラードに移り住んだ後に爆撃があって、その時は確かに物も不足していました。 でもその頃、僕自身は田舎に帰って疎開していたんです。爆撃されている間は練習もなかったので。 だから僕自身はそんなに爆撃の影響は受けていません。
加藤 そんな中でも良い選手をたくさん輩出していて・・・すごいですね。
Muruja まぁ爆撃も2、3か月の事でしたから。そんなに影響はなかったと思っています。
加藤 爆撃の後はすぐに戻ってサッカーをできる状況だったんですか?
Muruja はい、サッカーだけじゃなく学校もそうです。でももしかしたら、あの時期の前後のほうが良い選手を輩出してるかもしれませんね。
加藤 それはなぜ?
Muruja 旧ユーゴスラビアの時代からコンスタントに良い選手を輩出しているので、 あれくらいのちょっとした爆撃で2、3か月中断したところで、大きく変わらないです。
Pechuniku 才能のある人が多いからだよ(笑)!!
加藤 そうですか。日本のサッカーはバルカン出身の方にすごくお世話になっていますが、正直、細かい事情をあまり知らないんです。 だからこそ知りたいのですが、どう聞いて良いのかわからなくて。もし不快な思いをさせていたらすみません。
Muruja 全然!問題ないですよ(笑)
加藤 ありがとうございます。では、次はペチュニク選手のお話を伺いましょうか!
Pechuniku やったー!!!(とガッツポーズ)
當他們看到尖峰是入口時,他們的生活環境。 兩個忠心直率地告訴的人。 下次從此繼續。 是否正在傾聽靜靜地聽一陣子的微型耐克球員會爆炸! ?
來自東京的Rie Kato(演員,演員)。有一個日本巴西人的母親,愛足球和J聯賽。他作為演員出現在各種電影,戲劇和廣告中。作為“totoONE”的常客http://www.totoone.jp)。官方博客http://ameblo.jp/kato-rie/推特@ vi729