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前人未踏の“プロピックルボール選手”という道を選んだ“三好健太”の挑戦とは

“プロピックルボール選手” という、日本ではまだ未開拓なプロの道へと進んだ三好健太。「MLPA(メジャーリーグピックルボールオーストラリア)」という大舞台に日本人で初めて出場した。テニス界のトップで戦ってきたからこそ、“プロになる”厳しさを知っている。どうしても諦めきれなかった“プロ”の肩書きを、“ピックルボール”という競技で成し遂げた。今回はそんな三好健太選手について語りたい。※トップ画像出典/All content owned by @ppatour. Australia and @mIp.Australia

Icon img 9605 1  1 髙橋菜々 | 2024/12/04

“プロピックルボール選手”三好健太

気さくで話しやすく、いつも半袖ポロシャツの襟を立てている人。それが三好健太(みよしけんた)だ。

現在はプロピックルボール選手として活動する三好は、実は元・テニス選手。彼のテニス歴は長く、小学生のころからキャリアをスタートさせている。小学5年生のときに、元・プロテニス選手の松岡修造氏が主催していたジュニア選手強化合宿「修造チャレンジ」に選出されたことも。この合宿は将来世界のトップレベルで活躍できる男子選手を育成することを目的としたもので現在も世界で活躍するプロテニス選手、錦織圭も参加していた。

合宿に参加していた当時、金髪でフェラーリの真っ赤な帽子をかぶってプレーしていたため、松岡氏から「フェラーリ」と呼ばれてたとか。小中高とテニスクラブで己のテニステクニックを磨き、大学に進学。早稲田大学体育会テニス部に入部しテニス漬けの学生時代を送った。大学卒業後も実業団でテニスを続けたものの、25歳で引退を決意。

テニス選出としてのキャリアを終了してから4年後の2024年3月、三好は“日本初のプロピックルボール選手”という前人未踏の道を選んだのだった。

想像以上に厳しかった「プロ」の世界

三好の経歴はテニス経験者なら羨むほどの華麗な実績が並ぶ。全国選抜高校テニス優勝に、USオープンジュニア出場…しかし三好本人は過去の実績に執着していなかった。彼は自分の将来を、とある試合にかけていた。

「全日本学生テニス選手権大会」通称“インカレ“。略称ならば多くの方が耳にしたことがあるのではないだろうか。

三好はこの“インカレ”で優勝できたらプロになることを決めていたが、結果は準優勝。己の実力を実感し、三好はプロではなく実業団でテニスを続ける道を選んだ。

彼に当時の心境を聞いてみると「(自分の中で)優勝をしてもプロの世界は厳しいと分かっていた」との返答が返ってきた。厳しい“プロ”の世界に入るためには、誰もが知る大きな大会で“優勝“という結果を残す必要があると考えていたのだそうだ。

その後実業団でプレイヤーとしてテニスを続けるも、25歳の時に現役プレイヤーとしての引退を決意。“コーチ”としてテニスに携わるキャリアを選んだのだった。

“プロ”の道に再挑戦したいと思わせてくれた「ピックルボール」

一度はあきらめた“プロ”の道。しかし三好はどうしても“プロ”への道が諦められなかった。そんな三好が出合ったのが「ピックルボール」だった。

「ピックルボール」ー日本ではまだ聞きなれない競技名だろう。ピックルボールとは、コート上でプラスチック製のボールをパドル(テニスでいうところのラケット)で打ち合う競技で、卓球、テニス、バドミントンを元に考えられたそうだ。

2023年6月に参加したイベントで「ピックルボール」の存在を知り、同年10月に初めて競技を体験をした三好。テニスの要素を備えたその競技はやればやるほど、自分のキャリアを活かせることを体感できたようだが、レベルが上がるにつれて敗北を期するようになった。しかし、レベルが上がるにつれて敗北を期するようになった。悔しかったのだろう、日本では大会もあまりないようで、敗北を機により高みを目指し、アメリカのプロトーナメント参戦を決意。(個人的には少々飛躍しているように思ったが、さすが“フェラーリ“、思考も異次元のようだ)。

なぜ日本国内の大会やアジアで開催される大会ではなく、まず初めにアメリカへ行ったのか?と三好に聞いてみると、「プロ選手として、本気で世界のトッププロを目指すなら、まず初めに世界のトップ“プロ”がいるアメリカで世界の壁を感じたかったから」と回答が返ってきた。

生半可な気持ちでプロ選手という肩書きを背負うことは出来ない。とても大きな壁が立ちはだかっているのは大前提で本気に挑んでいることが強く伝わってきた。

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出典/All content owned by @ppatour. Australia and @mIp.Australia

やはり厳しい“プロ選手”の道

まだまだ日本ではマイナー競技の「ピックルボール」だが、プロ選手はやはり難しいことに変わりない。

しかも日本においては、プロピックルボール選出になる明確な基準がないのが現状だ。だからこそ三好は己に試合出場とそこでの結果をストイックに課し、日本だけでなく、世界に通用するプロ選手でなりたいと考えているそうだ。

三好のプロ選手への活動は2024年3月から始まった。

アメリカのプロトーナメントの初試合は予選1回戦敗退。日本で練習をしていた時はほぼ敵なしと思っていたが、本場アメリカでは全く通用しなった。この敗北でさらにピックルボールへの想いが強くなったという。日本におけるピックルボールの最新情報は本場アメリカではもう古い情報だったり、現地だからこそわかることも多いと彼は語る。

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出典/All content owned by @ppatour. Australia and @mIp.Australia

アメリカと日本の“ギャップ”

アメリカにおける「ピックルボール」の練習場所はとにかく豊富だという。日本でピックルボールを練習する場合、どこでやってもいいわけではなくテニスコートを使用することが多い。しかもその場合はテニスコートの管理者にピックルボールでの利用許可を得ることから始まる。

無事に許可が下りてすぐに競技ができるーわけはなく、既存のテニスコートで、ピックルボールを練習する”準備”をするのだ。自分たちでサイズを測りながらコート上にピックルボール用のラインをテープで引く。雨が降った後であれば、地面にテープを貼ることが出来ないし、練習中にラインを踏んだりしてしまえばテープは剥がれてしまう。

普段からそんな環境で練習をしていたので、アメリカのパブリックコートの多さには本当に驚いたのだという。アメリカには、日常の中に「ピックルボール」が存在しているのだ。

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画像提供/本人(三好健太)

だからか、ピックルボールの試合会場では、音楽が流れ、観客は飲食を楽しみながら試合を観戦するーそんな日常の一部としてピックルボールが親しまれている、その雰囲気が本当によかったのだと三好は言う。

テニスは静かに観戦するのが”当たり前”であるが、ピックルボールは真逆の環境なのだそう。選手がただ試合をするわけでなく、運営側と観客も大会を盛り上げようとする雰囲気自体も彼のお気に入りだそうだ。

実際にプロとしてピックルボールに情熱を向ける三好健太を取材してみると、私も俄然“ピックルボール”への興味がわき、いつの間にかハマっていた。

後編では、遠征や海外でのエピソードや今後のキャリア展望についてたっぷり語っていただいた。こちらもぜひご覧いただきたい。


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職業軟式網球運動員船水雄太透露了他決定打“雙打”匹克球背後的真相:“我必須學習新技術並突破自己的極限。”

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三好健太
1995年埼玉県さいたま市生まれ。5歳からテニスを始め、9歳でアメリカはニックボルテリー(現:IMGアカデミー)で短期間のトレーニングと試合出場の経験を詰む。日本では12歳で初めて全国大会に出場。高校になると全国高校選抜テニスで優勝し更には世界最高峰と呼び名の高いUSオープンジュニア予選にも出場する。早稲田大学に進学後のインカレでは惜しくも準優勝に留まり、プロの道へ進む厳しさを痛感。卒業後は実業団の選手として3年間プレー。その後元々の目標であった独立を実現し、テニスの指導、大会やイベントの企画運営などを事業として展開。事業を進める中でピックルボールと出会い、今までにないワクワクとピックルボールという競技の可能性を感じる。再度夢だったプロの道を目指すという明確な目標もでき、2024年から本格的に選手活動を始める。目指すはピックルボールの選手として世界一になることとピックルボールで社会現象を巻き起こすこと。