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籃球界的鐵人武彥武彥(Takehiko Orimo)接受的更改(第2部分)

2019年1月,一名男子在日本籃球界樹立了一座紀念碑。 Levanga北海道的Takehiko Orimo在日本頂級聯賽中總共獲得10,000分。這位為日本籃球界感到驕傲的鐵人,也是一位超級獨特的運動員,他是最老的現役球員,並且還擔任過他所屬的北海道萊萬加(Levanga Hokkaido)總裁。在過去的26年中一直活躍在日本頂級聯賽中的奧里莫(Orimo)並非總是一帆風順。他已有26年的漫長職業生涯,他接受了因年齡而下降和隨著時間的流逝而發生的變化。在第一部分中,我們回顧了Orimo如何成為職業球員,但是在第二部分中,我們詢問了他在成為球員時如何成為經理,關於奧運會以及他未來的積極生活。

圖標segawa.taisuke1瀨川大輔 | 2019/08/15
這是第一部分

その数年後、レラカムイ北海道の運営が厳しくなってしまいましたが、その時の状況を聞かせてください。

レラカムイ北海道では、たくさん勝てたわけではなかったですが、プロ選手とは、プロチームとはこういうものなんだというこをと経験させてもらいました。それまで、あれだけの声援を受ける経験をしたことがなかったんですよね。それまで実業団チームでやってきましたので、地域密着という考えはありませんでしたし、ファンの声援を身近に感じたり、地域の方に支えられていると感覚はありませんでした。それをはじめて感じさせてもらったのが、北海道に移籍してからでした。まあチームは弱かったですけど、観客動員数はずっとダントツで一番でしたから。これだけのファンがいる地域から、バスケットのチームがなくなることの損失の大きさを考えました。僕は最後と決めて北海道に移籍しましたし、バスケットボールの火がついた地域で、チームをなくすわけにはいかないという想いで、最後は運営会社を立ち上げて、引き受け手のいなかった代表を自分が引き受けることにしました。   ただ、経営に関してはド素人だし、勉強もしたことなかったので、まさか自分がやるとは思っていなかったですね。まあタイミングなんでしょうね。2011年の3月11日に、東日本大震災が起きて、それまでリーグが進めていた受け入れ先との交渉も、話が流れてしまいましたから。

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最大で2億4千万円の借金を背負ったこともあると伺いましたが、経営者として相当苦しかったのではないですか?

数字に関しては、借金をあれだけ抱えたわけですから。でも、失敗があったからこそ今があるわけで。当然はじめからうまくいくわけもなく、失敗して学んできたところの方が大きいですかね。だから、大きな借金を抱えようが、あまりへこたれなかったですね。

ご家族の反応はいかがでしたか?

特にはなかったですね。家族にとって一番安心な選択は僕が移籍することだったと思います。なんで、わざわざ苦労する道を選ぶのかっていう話なんですけど、家族は『バスケットで稼いだお金だから、自分で好きなように使えば』と言ってくれて。   家族からは、理解されていたのか、諦められていたのかはわからないですが、北海道に移籍した時もそうですし、『どうせ決めているんでしょ』という感じの方が大きかったのかもしれません。

先ほど『へこたれなかった』とおっしゃっていましたが、それまでの順風満帆な人生からは一転しました。その点ではいかがですか?

小さな失敗はたくさんしてきましたけど、大きな失敗はほとんどなく、トントン拍子で来たので、初めて行き詰まったのが、あの時でした。会社を立ち上げた時に初めてドン底を見たんですよ。その時、ちょうど厄年、本厄だったんですよ。本当に厄年ってあるんだなって、思ったんですよね。実は。

会社を立ち上げて代表となった時に、自分で決意したことはありましたか。

会社の代表取締役になった時に決めたことは 一つだけです。「選手である以上は、選手の評価を一切しない」ということだけを決めました。そうじゃないと、選手たちと向き合えないじゃないですか。僕も選手なのに、僕が査定をして僕が年棒を決めたり評価をすることになれば、当然みんなは気を使うし、僕が何か言えばパワハラになりかねない。みんな僕と口を聞いてくれなくなって、チームの関係が崩れてしまう。そこさえ線を引いていれば選手たちとはいい関係でいられるんです。

それができないから二足のわらじを履く人がいないんでしょうか?

どうなんでしょうね。でも、やらない方がいいと思いますけどね(笑)。大変なだけだと思いますよ。去年は丸1日休めたのは3日間くらいですかね。家族サービスなんて一回もしていませんしね。でも、勝つためには、クラブを成長させていくためには、やらなければならないこと、犠牲にしなければならないことがたくさんあります。

北海道のファンの方々のスポーツへの熱は本当にアツいものがありますよね。

雪国ということもありますし、日本の中でも離島という特性もあると思います。でも一番大きいのは、やはりプロ野球やJリーグのチームがしっかり根付いていたということじゃないですかね。そういうところに我々が後から入っていったので、受け入れられやすい環境だったと思います。   また、北海道のメディアさんは、バスケットボールを、野球やサッカーと同じように扱ってくれることがすごく嬉しくて。バスケットボールってマイナーな競技でしたから、いくら僕が4回も日本一になっていても、一般の方々が僕を知っていることはまずなかったんですよ。なぜならメディアに取り上げられることがほとんどなかったので。でも、北海道に移籍してからは、誰にでも声をかけてもらえる。本当に一人のアスリートとして、取り扱ってもらえたことはとても有り難かったです。

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提供=レバンガ北海道

紆余曲折を経ながら、日本のバスケットボール界で長いキャリアを積んできたと思いますが、とうとう2020年に、東京オリンピックが開催されます。この点についてはどうお考えですか?

日本のバスケットボール界にとっても、一人のバスケットボール人としても、本当に喜ばしいことですよね。僕自身は、世界選手権には2回出ているんですけど、オリンピックには一回も出ていません。オリンピックっていうのはアスリートにとっては一番大きな大会ですから、やはり一度でいいからその場にいたかったなという思いはあります。オリンピックの出場が決まった時にも、最初に思ったのは「時代に選ばれなかったな」と。

バスケットボールでは、精神的支柱としての役割を任されるような選出のされ方はないのでしょうか?

ないと思います。登録人数が12名と少ないので。バスケットボールの場合、12名すべての人間が戦力でなければ戦えないので、限られた枠の中に入るのは難しいとわかっていますが、やはり現役選手である以上、そこを目指していないと、このリーグでは戦っていけないので、選ばれる選ばれないは別として、日本代表を目指すというのは、頭の片隅には入れています。

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これから先の現役生活をどのようにイメージされていますか?

僕は、基本的に辞めどきを失っているんですよ。あとどれだけバスケットボール人生が残っているのか、自分でもわからないんですよね。プロ選手なので、結果が伴わなければ去らざるを得ませんし、そこは自分自身でしっかり判断しなきゃいけないと思っています。アスリートなので、怪我はつきものですが、例えば、大きな怪我をしてしまったら、半年・1年とリハビリをして復帰する気力は、多分残っていないでしょう。だから、そこは運に任せてやっていこうかなと思っています。


採訪/文字/照片:Yasuyuki Segawa