無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(前編)~
大学卒業後からフィリピンリーグでプレーし、昨年にはACLのプレーオフで憧れのFC東京との試合にフル出場した小田原貴。一時はサッカーを諦め、フィリピンで働いていた時期もあった。どのようにして憧れの舞台までたどり着いたのか。詳しく聞かせて頂いた。
小池菊池
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2021/01/31
――まずは大学を卒業後にフィリピンへ行くことになった理由を教えてください。
小田原:東京農業大学の4年生になった時に就職活動(以下:就活)をするか否か考えましたが、やはりプロになりたい気持ちが強かったので、就活をせずにサッカー1本で1年間過ごすことにしたんです。
その時にJリーグの1チームへ練習参加をしましたが、それ以外のチャンスはありませんでした。
夏頃にフィリピンリーグの日本人がオーナーをしているチームの監督とコーチが、大学の練習と試合を見に来る機会があり、「フィリピンに興味がないか」という話を直接頂きました。
どうするかしばらく考えましたが、最終的に「来て欲しい」と言ってくれているチームに行くのが1番だと思い、フィリピンに行くことを決めました。
――そのチームはどんなチームなんですか?
小田原:JPヴォルテスというチームです。外国人枠の選手が4人とも日本人で、監督も当時は日本人でした。
――大学を卒業してフィリピンに行くにあたり不安は?
小田原:それまで、ほとんど海外に行ったことがなかったのでイメージがわかずに最初は怖かったです。チーム内に日本人が外国人選手としていたので、人の部分では安心感がありました。ただ行く前は凄く不安でしたよ。
――どんなところに住んでいたのですか?
小田原:都心から少し離れたところにチームが家を構えていて、そこにみんなでシェアハウスとして住まわせてもらいました。
日本と比べると清潔感も違いますし、ちょっとヤバいところに来たかなと最初は思いましたが、1ヶ月もしないうちに慣れて、サッカーにも集中出来ました。
――チームに日本人もいて最初の海外挑戦としては良かったですね。1年目の結果はいかがでしたか?
小田原:本当にその部分では助かりました。フィリピンリーグには1部と2部があって、当時は2部に所属していました。
2部で2位になり、1部の下位とプレーオフを戦い、勝って1部リーグ昇格を勝ち取りました。
――フィリピンでの小田原さんのポジションは?
小田原:最初はセンターバックで入って、ボランチでプレーすることもありました。
――外国人選手と対峙していかがでしたか?
小田原:僕は身長はありますが、線が細くてフィジカルを重視するようなタイプではないので、荒っぽさという部分では慣れてないなと当初は感じていました。
――日本よりも気持ちを全面に出して戦ってくる選手が海外は多いような気がします。
小田原:それが外国人選手もローカルのフィリピン人選手もそうで、上手さはないけれど一つ一つの球際の局面で頑張る選手が多くて、日本にはない感覚でしたね。
ボールの扱いと戦術の部分は負けてないなと思いましたが、身体を激しく当ててくる部分は外国人選手やフィリピン人選手は上手いなと思いました。
――2年目も同じチームですね。2年目はどうでしたか?
小田原:日本人選手の質がさらに上がりました。世代別の日本代表経験がある柳川雅樹さんがフィリピン1部のチームから移籍して加入したり、Jリーグ経験のある上里琢文さんが加入しました。
2年目のシーズンは中盤の前目のポジションをやることになりました。
――1部リーグを戦ってみて手応えはいかがでしたか?
小田原:1部のチームにはフィリピンとヨーロッパのハーフの選手も多くて、2部に比べて一気にレベルが上がりました。
個人の成績として目に見える数字は出せなくて、このままだと助っ人外国人として先はないと危機感を凄く感じたシーズンでした。
それと同時に柳川さんなどJリーグを経験した選手が入ることによって、ピッチ内外での取り組み方や、試合や練習に対するアプローチなど学べたことが多かったです。
1回の練習にしっかり準備して全力を掛けている姿を見て、このままだったら僕はマズいなと感じたシーズンでした。
気持ちの持ち方や準備で差が出てくるんだなと凄く影響を受けたのです。
――チームの順位は?
小田原:4位でした。2位と3位と勝ち点は同じでしたが得失点差で4位となり悔しい想いをしました。
――1部挑戦の初年度で4位は良い結果では?
小田原:日本のスタイルを監督(当時は日本人の星出監督と柳川選手兼コーチ)中心にチームに植え付けて、それがはまりました。
ボールを後ろから繋いでゴールを目指すスタイルです。フィリピン人選手の能力も凄く伸びた1年でした。
――引き続き3年目のシーズンは同じチームですか?
小田原:同じチームです。選手は少し変わりましたがベースは同じです。自分は恐らくギリギリ契約できた感じでした。
あと、2年目の終わりに怪我をしてシーズン終了前に帰国したんです。身体が細い分、競り合いに負けることが多かったんです。
その際に、海外でのプレー経験が豊富な大友慧さんから上半身を上手く使うことのアドバイスを頂き、トレーニングを始めたら身体に変化がでてきたんです。
3年目のシーズン前にパーソナルトレーナーを付けました。身体の使い方を上手くするという指導で、筋トレはやらずに自分の身体を上手く使うというトレーニングを積むと、大きく変化しました。
――トレーニングの成果はサッカーでもでましたか?
小田原:3年目はキャプテンをやり、ポジションは変わらず前目をやりました。得点もとれたり、外国人選手としてキーになるプレーが出来たんです。
個人としては2桁得点できて結果をだせた1年となりました。一方でチームの順位は5位と結果が付いてこなかったんです。
――続いて4年目のシーズンは同じチームですか?
小田原:いいえ、ダバオアギラスという強豪チームに移籍しました。意欲のあるオーナーで補強に力を入れていて、優勝を狙いに行くチームでした。
ただ、チームとして結果がでずに、中断期間で監督が交代。僕も新しい監督が就任した時にクビになりました。
クビになってからの6ヶ月間は所属チームがなく、自主練をしたり古巣のJPヴォルテスの練習に参加させてもらいコンディションの維持に努めていました。
――無所属になり、その後はどうしたんですか?
小田原:冬にマレーシアにトライアウトへ行きましたがダメで、年明けにはシンガポールに行きましたがダメでした。
今の奥さんと当時、付き合っていましたが、彼女がフィリピンで就職していたのでフィリピンに戻りました。
自分は無職なので、日本に帰ってバイトをして、次の中断期間でチームを探して、チャンスが無かったらサッカーを辞めようかと思いましたが、彼女から「日本とフィリピンで遠距離になるのは嫌だ」と言われ、フィリピンでバイトしようと調べました。
フィリピンはバイトの概念がなく、ローカルの企業に入っても給与単価が低すぎて今の生活が保てないということで、就職するしかないという結論に至りました。
――フィリピンで就活したんですか?
小田原:はい。フィリピンの日系企業や外資系の企業をいくつかあたって、内定頂いた日系企業に就職しました。それが3月くらいの話です。
後編につづく
無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(後編)~ | King Gear [キングギア] (king-gear.com)
写真提供:小田原貴
インタビュー写真:菊池康平
小田原:東京農業大学の4年生になった時に就職活動(以下:就活)をするか否か考えましたが、やはりプロになりたい気持ちが強かったので、就活をせずにサッカー1本で1年間過ごすことにしたんです。
その時にJリーグの1チームへ練習参加をしましたが、それ以外のチャンスはありませんでした。
夏頃にフィリピンリーグの日本人がオーナーをしているチームの監督とコーチが、大学の練習と試合を見に来る機会があり、「フィリピンに興味がないか」という話を直接頂きました。
どうするかしばらく考えましたが、最終的に「来て欲しい」と言ってくれているチームに行くのが1番だと思い、フィリピンに行くことを決めました。
――そのチームはどんなチームなんですか?
小田原:JPヴォルテスというチームです。外国人枠の選手が4人とも日本人で、監督も当時は日本人でした。
――大学を卒業してフィリピンに行くにあたり不安は?
小田原:それまで、ほとんど海外に行ったことがなかったのでイメージがわかずに最初は怖かったです。チーム内に日本人が外国人選手としていたので、人の部分では安心感がありました。ただ行く前は凄く不安でしたよ。
――どんなところに住んでいたのですか?
小田原:都心から少し離れたところにチームが家を構えていて、そこにみんなでシェアハウスとして住まわせてもらいました。
日本と比べると清潔感も違いますし、ちょっとヤバいところに来たかなと最初は思いましたが、1ヶ月もしないうちに慣れて、サッカーにも集中出来ました。
――チームに日本人もいて最初の海外挑戦としては良かったですね。1年目の結果はいかがでしたか?
小田原:本当にその部分では助かりました。フィリピンリーグには1部と2部があって、当時は2部に所属していました。
2部で2位になり、1部の下位とプレーオフを戦い、勝って1部リーグ昇格を勝ち取りました。
――フィリピンでの小田原さんのポジションは?
小田原:最初はセンターバックで入って、ボランチでプレーすることもありました。
――外国人選手と対峙していかがでしたか?
小田原:僕は身長はありますが、線が細くてフィジカルを重視するようなタイプではないので、荒っぽさという部分では慣れてないなと当初は感じていました。
――日本よりも気持ちを全面に出して戦ってくる選手が海外は多いような気がします。
小田原:それが外国人選手もローカルのフィリピン人選手もそうで、上手さはないけれど一つ一つの球際の局面で頑張る選手が多くて、日本にはない感覚でしたね。
ボールの扱いと戦術の部分は負けてないなと思いましたが、身体を激しく当ててくる部分は外国人選手やフィリピン人選手は上手いなと思いました。
――2年目も同じチームですね。2年目はどうでしたか?
小田原:日本人選手の質がさらに上がりました。世代別の日本代表経験がある柳川雅樹さんがフィリピン1部のチームから移籍して加入したり、Jリーグ経験のある上里琢文さんが加入しました。
2年目のシーズンは中盤の前目のポジションをやることになりました。
――1部リーグを戦ってみて手応えはいかがでしたか?
小田原:1部のチームにはフィリピンとヨーロッパのハーフの選手も多くて、2部に比べて一気にレベルが上がりました。
個人の成績として目に見える数字は出せなくて、このままだと助っ人外国人として先はないと危機感を凄く感じたシーズンでした。
それと同時に柳川さんなどJリーグを経験した選手が入ることによって、ピッチ内外での取り組み方や、試合や練習に対するアプローチなど学べたことが多かったです。
1回の練習にしっかり準備して全力を掛けている姿を見て、このままだったら僕はマズいなと感じたシーズンでした。
気持ちの持ち方や準備で差が出てくるんだなと凄く影響を受けたのです。
――チームの順位は?
小田原:4位でした。2位と3位と勝ち点は同じでしたが得失点差で4位となり悔しい想いをしました。
――1部挑戦の初年度で4位は良い結果では?
小田原:日本のスタイルを監督(当時は日本人の星出監督と柳川選手兼コーチ)中心にチームに植え付けて、それがはまりました。
ボールを後ろから繋いでゴールを目指すスタイルです。フィリピン人選手の能力も凄く伸びた1年でした。
――引き続き3年目のシーズンは同じチームですか?
小田原:同じチームです。選手は少し変わりましたがベースは同じです。自分は恐らくギリギリ契約できた感じでした。
あと、2年目の終わりに怪我をしてシーズン終了前に帰国したんです。身体が細い分、競り合いに負けることが多かったんです。
その際に、海外でのプレー経験が豊富な大友慧さんから上半身を上手く使うことのアドバイスを頂き、トレーニングを始めたら身体に変化がでてきたんです。
3年目のシーズン前にパーソナルトレーナーを付けました。身体の使い方を上手くするという指導で、筋トレはやらずに自分の身体を上手く使うというトレーニングを積むと、大きく変化しました。
――トレーニングの成果はサッカーでもでましたか?
小田原:3年目はキャプテンをやり、ポジションは変わらず前目をやりました。得点もとれたり、外国人選手としてキーになるプレーが出来たんです。
個人としては2桁得点できて結果をだせた1年となりました。一方でチームの順位は5位と結果が付いてこなかったんです。
――続いて4年目のシーズンは同じチームですか?
小田原:いいえ、ダバオアギラスという強豪チームに移籍しました。意欲のあるオーナーで補強に力を入れていて、優勝を狙いに行くチームでした。
ただ、チームとして結果がでずに、中断期間で監督が交代。僕も新しい監督が就任した時にクビになりました。
クビになってからの6ヶ月間は所属チームがなく、自主練をしたり古巣のJPヴォルテスの練習に参加させてもらいコンディションの維持に努めていました。
――無所属になり、その後はどうしたんですか?
小田原:冬にマレーシアにトライアウトへ行きましたがダメで、年明けにはシンガポールに行きましたがダメでした。
今の奥さんと当時、付き合っていましたが、彼女がフィリピンで就職していたのでフィリピンに戻りました。
自分は無職なので、日本に帰ってバイトをして、次の中断期間でチームを探して、チャンスが無かったらサッカーを辞めようかと思いましたが、彼女から「日本とフィリピンで遠距離になるのは嫌だ」と言われ、フィリピンでバイトしようと調べました。
フィリピンはバイトの概念がなく、ローカルの企業に入っても給与単価が低すぎて今の生活が保てないということで、就職するしかないという結論に至りました。
――フィリピンで就活したんですか?
小田原:はい。フィリピンの日系企業や外資系の企業をいくつかあたって、内定頂いた日系企業に就職しました。それが3月くらいの話です。
後編につづく
無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(後編)~ | King Gear [キングギア] (king-gear.com)
写真提供:小田原貴
インタビュー写真:菊池康平