日語第一! Ho Paro專業的松浦紀行先生為談論Vol.1“對Hopelo絕望”
在東京Verdy和名古屋Grampus活躍25年的日本職業選手松浦紀之女士。我問了大約8個小時關於事情的熱情以及留在印像中的玩家的關注。
小池菊池
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2017/07/03
――ホぺイロとしてのこだわりや、これまでに接してきた選手達のギアへの想いなどを聞かせて頂きたく本日を楽しみにしていました。まずは松浦さん自身のことを聞かせてください
。
なぜ会社員を辞められて、ホぺイロの道に進まれたんですか? 何かきっかけがあったんですか?
松浦:ホペイロになる前は一般企業で働いてたんですよ。日本のサッカーがプロ化される時に私は社会人だったのですが、小さい頃からサッカーをやっていまして「野球少年がプロ野球選手になりたい」ように「プロサッカー選手になりたい」という夢があったんです。
でも、とてもプロサッカー選手になれるような実力はなかったので、その時にホぺイロという「用具のプロ」が世界には沢山いるという事を知って、これなら自分も出来るかもって思ったんです。それがきっかけですね。
――どのようにしてホペイロという職業があるということを知ったんですか?
松浦:当時の雑誌ですね。サッカーマガジンかダイジェストがまだ隔週だった頃に小さくこういう仕事があるよって書いてありまして。見た途端「おぉー!」なんて叫んだ記憶があります。小さい頃からスパイクなどの道具の手入れをするのがすごく好きだったので。
――会社員としてはどのくらいの期間働いていたんですか?
松浦:辦公室工作人員已經做了4年!
- 你年齡在18歲到22歲之間?你是從22歲開始到海佩洛的嗎?
松浦:そうですね、22歳からですね。
――全くサッカーと関係ない仕事をされていて、サッカーの方に戻ったんですね! 日本人初のホぺイロになられた経緯を教えてください。
松浦:1993年,職業化由專業人士(J聯盟)於1993年決定並正式啟動,但當時的讀賣俱樂部首次在日本的Ho Peiro在日本推出。そのホぺイロはブラジルから来られた方がやっていまして、その方とサッカー場で知り合ったんです。
――サッカー場で知り合った話をもう少し詳しく教えてください。
松浦:以前に勤めていた会社に日系ブラジル人がいまして、彼が日本のサッカーを馬鹿にしたんですよ。「つまらない」と言って。「でもブラジルみたいなテクニックを使ってサンバのリズムに乗ってやるチームがあるよ!」って私は反論しまして。それが読売クラブでした。
その彼と静岡県の富士市だったんですけど、読売クラブ対トヨタ自動車の試合の観戦に行きました。その試合を観て、彼も「ブラジルのサッカーみたいだ!」って驚いていました。
今みたいにスタジアムは厳しくなくて、試合が終わって喉が乾いたから自動販売機でジュースを買っていたら、その横の扉が開いたんですよ!
そしたら偶然、将来の自分の師匠になるホペイロの方がそこから出てきて。そこは関係者の通用口で今だと全然入れない様な場所なんです。当時は普通に開いて「あっ!」って感じでそこから話すようになって、仲良くなりました。
――その人はブラジル人なんですか?
松浦:そうです。ブラジル人です。ルイス・ベゼーハ・ダ・シルバさんっていう方です。
――凄い出会いですね!松浦さんが声をかけてから始まったんですね。
松浦:そうなんです。そこから仲良くさせて頂いて。
――はじめはアシスタントみたいな形だったんですか?
松浦:沒錯。他還從巴西來到日本,似乎第一次承包了8個月,但最終還是8年。
彼はブラジルから来てホペイロというものを伝えたいし、彼の夢が日本人のホペイロを育てる事でした。ある日突然電話が来て、カタコトの日本語で「アナタワタシテツダウ」っていうから、アルバイトだと思ったんですよ。「アルバイト?いいよ!」なんて話はしてたんですけど、そうじゃないよって言われて。
――正式にというかスタッフでだったんですね?
松浦:そうなんです。
――松浦さんは靴を磨くのが昔から好きだったとおっしゃってましたけども、なぜなんですか?元々物を大切にするっていう性格だったんですかね?
松浦:自分が使っている物は常に綺麗にしておきたいっていう性格なんです。当時チームメイトとマイクロバスで遠征などへ行くんですけれども、そのバスの中を綺麗にしてあげたりとか。
――なるほど。綺麗にするのが好きだったというのもあるんですね。部屋も綺麗な感じなんですね、きっと!
松浦:そうですね。部屋は普通だと思います(笑)
――ある意味天職ですよね。もちろん選手になれたら1番良かったとは思いますが、サッカーに携わる素晴らしい仕事ですよね。
1993年のヴェルディは恐らく1番個性が強かったじゃないですか。1番強かったし面白かったと思うんですけど、そこに新人ホぺイロとして入っていって、何か言われた思い出とか大変だった思い出などを教えてください。
松浦:有很多事情(笑)我當前的基金會是在那個時候培養的。
まずはラモスさんからは「真面目にやってればいつか良いことあるから」って毎日言われてましたし、カズさん(三浦知良選手)からは「自分達はプロサッカー選手としてやっているけれど、そこで働くスタッフもプロじゃないと本当のプロといえないから、プロ意識を持つように」って言われてたんですね。それで、プロ意識ってなんだろうって考える様になりました。
――カズさんがクラブにホペイロなどのプロのスタッフを入れたほうが良いと当時に言っていた話などは聞いたことがあります。
松浦:當Kazu先生從巴西返回日本時,這是一個日本聯賽,但當時沒有Hepeiro,所以Kuzu和Ramos對俱樂部說,當時做專業人士並不好看來我給了它。
vol.2に続く。 http://king-gear.com/articles/399
先生松浦先生的官方博客
http://blog.livedoor.jp/roupeiro_matsu/
取材協力/株式会社 ミズノ
なぜ会社員を辞められて、ホぺイロの道に進まれたんですか? 何かきっかけがあったんですか?
松浦:ホペイロになる前は一般企業で働いてたんですよ。日本のサッカーがプロ化される時に私は社会人だったのですが、小さい頃からサッカーをやっていまして「野球少年がプロ野球選手になりたい」ように「プロサッカー選手になりたい」という夢があったんです。
でも、とてもプロサッカー選手になれるような実力はなかったので、その時にホぺイロという「用具のプロ」が世界には沢山いるという事を知って、これなら自分も出来るかもって思ったんです。それがきっかけですね。
――どのようにしてホペイロという職業があるということを知ったんですか?
松浦:当時の雑誌ですね。サッカーマガジンかダイジェストがまだ隔週だった頃に小さくこういう仕事があるよって書いてありまして。見た途端「おぉー!」なんて叫んだ記憶があります。小さい頃からスパイクなどの道具の手入れをするのがすごく好きだったので。
――会社員としてはどのくらいの期間働いていたんですか?
松浦:辦公室工作人員已經做了4年!
- 你年齡在18歲到22歲之間?你是從22歲開始到海佩洛的嗎?
松浦:そうですね、22歳からですね。
――全くサッカーと関係ない仕事をされていて、サッカーの方に戻ったんですね! 日本人初のホぺイロになられた経緯を教えてください。
松浦:1993年,職業化由專業人士(J聯盟)於1993年決定並正式啟動,但當時的讀賣俱樂部首次在日本的Ho Peiro在日本推出。そのホぺイロはブラジルから来られた方がやっていまして、その方とサッカー場で知り合ったんです。
――サッカー場で知り合った話をもう少し詳しく教えてください。
松浦:以前に勤めていた会社に日系ブラジル人がいまして、彼が日本のサッカーを馬鹿にしたんですよ。「つまらない」と言って。「でもブラジルみたいなテクニックを使ってサンバのリズムに乗ってやるチームがあるよ!」って私は反論しまして。それが読売クラブでした。
その彼と静岡県の富士市だったんですけど、読売クラブ対トヨタ自動車の試合の観戦に行きました。その試合を観て、彼も「ブラジルのサッカーみたいだ!」って驚いていました。
今みたいにスタジアムは厳しくなくて、試合が終わって喉が乾いたから自動販売機でジュースを買っていたら、その横の扉が開いたんですよ!
そしたら偶然、将来の自分の師匠になるホペイロの方がそこから出てきて。そこは関係者の通用口で今だと全然入れない様な場所なんです。当時は普通に開いて「あっ!」って感じでそこから話すようになって、仲良くなりました。
――その人はブラジル人なんですか?
松浦:そうです。ブラジル人です。ルイス・ベゼーハ・ダ・シルバさんっていう方です。
――凄い出会いですね!松浦さんが声をかけてから始まったんですね。
松浦:そうなんです。そこから仲良くさせて頂いて。
――はじめはアシスタントみたいな形だったんですか?
松浦:沒錯。他還從巴西來到日本,似乎第一次承包了8個月,但最終還是8年。
彼はブラジルから来てホペイロというものを伝えたいし、彼の夢が日本人のホペイロを育てる事でした。ある日突然電話が来て、カタコトの日本語で「アナタワタシテツダウ」っていうから、アルバイトだと思ったんですよ。「アルバイト?いいよ!」なんて話はしてたんですけど、そうじゃないよって言われて。
――正式にというかスタッフでだったんですね?
松浦:そうなんです。
――松浦さんは靴を磨くのが昔から好きだったとおっしゃってましたけども、なぜなんですか?元々物を大切にするっていう性格だったんですかね?
松浦:自分が使っている物は常に綺麗にしておきたいっていう性格なんです。当時チームメイトとマイクロバスで遠征などへ行くんですけれども、そのバスの中を綺麗にしてあげたりとか。
――なるほど。綺麗にするのが好きだったというのもあるんですね。部屋も綺麗な感じなんですね、きっと!
松浦:そうですね。部屋は普通だと思います(笑)
――ある意味天職ですよね。もちろん選手になれたら1番良かったとは思いますが、サッカーに携わる素晴らしい仕事ですよね。
1993年のヴェルディは恐らく1番個性が強かったじゃないですか。1番強かったし面白かったと思うんですけど、そこに新人ホぺイロとして入っていって、何か言われた思い出とか大変だった思い出などを教えてください。
松浦:有很多事情(笑)我當前的基金會是在那個時候培養的。
まずはラモスさんからは「真面目にやってればいつか良いことあるから」って毎日言われてましたし、カズさん(三浦知良選手)からは「自分達はプロサッカー選手としてやっているけれど、そこで働くスタッフもプロじゃないと本当のプロといえないから、プロ意識を持つように」って言われてたんですね。それで、プロ意識ってなんだろうって考える様になりました。
――カズさんがクラブにホペイロなどのプロのスタッフを入れたほうが良いと当時に言っていた話などは聞いたことがあります。
松浦:當Kazu先生從巴西返回日本時,這是一個日本聯賽,但當時沒有Hepeiro,所以Kuzu和Ramos對俱樂部說,當時做專業人士並不好看來我給了它。
vol.2に続く。 http://king-gear.com/articles/399
先生松浦先生的官方博客
http://blog.livedoor.jp/roupeiro_matsu/
取材協力/株式会社 ミズノ